こんばんわ!

いぬい氏です。

昨日のブログを読んでいた人からこんな質問が

A「いぬい氏が理想とする共育ってどんなのかわかりにくい

まだまだあやふやなところもたくさんある「共育」という言葉。それを今日は教育という言葉と比較しながら、考えていきたいと思います。

「教育 意味」で検索してみると

教育(きょういく、羅: educatio、英: education、仏: éducation, enseignement、独: Bildung, Erziehung、西: educación、葡: educação、露: Образование、亜: تعليم‎)は、教え育てることであり[1][2]、ある人間を望ましい状態にさせるために、こころとからだの両面に、意図的に働きかけることである[3]。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすること[4]である。

とありました。教え育てること。その結果、受ける人が知識を得て、技能を身に着け、その人が持つ能力を引き出そうとすること。

これを改めてみたとき、教育という言葉と共育という言葉を分けて考えられていないなぁと自分自身も感じました。

教育の研修の中でこんな言葉も語られていました。それは「教育は矛盾や困難を克服し、自分たちの未来を切りひらいていく力を身に着ける」ことを目的としている。という考え方です。

矛盾や困難を克服し、自分たちの未来を切りひらく。これが実現するなら、教育ってすごいし、現実にしていく道のりとして、アクティブラーニングや、授業力改善の取り組み、人権、福祉、特別活動、学級活動などを通して実現していく為に努力されているんだなぁということを感じました。

ただ、自分がどうして「共育」を言い始めたかというと、大きな理由は「学ぶ側にゆだねる要素が小さくないか?」と感じたからです。教育でもそれは充分に行われているじゃないか。アクティブラーニングによって生徒が授業をする形態さえも出てきている状態になりつつあるじゃないか。

自分自身も当初、そう感じていて、学校において教育を行い続ければ、自分自身の理想に着実に近づいていけるし、そのための様々な見方、考え方を学ぶことができる。と思っていました。

けれど、「先生の授業は面白い。だけど教科書のことは難しい」とか「先生の生き方にうまく適応していって乗り切っていく」ことをし続けて良くなるのか?学校の先生自身も現場にいながら、学校の先生自身も「自分の理想と現実」のはざまで「やりたいことができない」という苦悩を持っている。そんな状態で本当に矛盾や困難を克服する生き方が実現できるのか?と感じているためです。

自分自身について考える時間」や「立ち止まって1か月の生活を振り返る時間」を持ちたい。「目標の決め方」「次のステージである高校生活を充実させるためには何をすればよいのか?」そんな、自己実現の機会がもっと学校で保障できれば、もっと子どもたちが豊かに過ごすことができるのではないか?そして、その子を支える親自身が豊かに生きる生き方を学べば、子も親も共に学び、共に成長し続ける。そんな共育の場ができるのではないか?を「自分自身を大切にすること」を学校の先生自身も、実現できればもっと「子どもたちを伸ばしていける」ように変わっていくのではないか。そう思って「共育」という言葉をいぬい氏は大事にしたいと思っています。

大きなことを言っているように見えるかもしれませんが、「自分が1日の中で考えたこと、感じた事」に関心をもって過ごせれば。周りがどうとか、ネットでこう言っていたとかは関係なく。自分が「本当に実現したい生き方」にみんながそれぞれの好きなことで生きていける世界を作る支援がしたいなぁと。

そうすれば、「いじめ0」といういぬい氏が思っている理想に近づけるのではないかなぁと。そう感じています。

共育への挑戦」。応援していただければ嬉しいです。

それではまた!

投稿者プロフィール

いぬい氏
いぬい氏
小学校・中学校でいじめを受け、自分のことが大嫌いだった。大学受験にも失敗し、希望も持てなかったが、大学での恩師との出会いが自分を変えていった。2015年より教師となり社会科教員として勤めながら「いじめ0」に向けて映画館にて年間50本以上の映画を見、レジェメを発信し続ける。
全ての子どもたちが「安心でき、良さを発見でき、成長を感じられ、サポートする立場になれる」よう共に育ち共に学ぶ共育スペースを創設する目標に向けて日々邁進中。